2016年2月27日土曜日

進化することと、変わらないこと




こんばんは。古本屋「BOOKBOOKこんにちは」です。
今週はなんだかすごく寒かった気がします。雪も降りました。もう春だなと思ってから本当に暖かくなるまでが意外と長いと、毎年このくらいの時期に思います。

今週は、近いところから、遠いところといろいろな所へ行きました。
いつもとは比べ物にならないくらい、いろんな人といろんな話をしました。初めての人とだったり、顔見知り程度の人とだったり、普段腰を据えて話すことのない人だったり、友達とだったり、本当にいろんな人と話しました。そして、いろんなやりたいと思っていることが、実現に向けて動き出したり、形になってきています。自分で何かをやろうと考えて、動いて、それが形になるということは、とても面白いです。
やりたいことは、まだまだ山のようにありますが、少しずつ形にしていきます。

今、ちょっと放置ぎみになっていますが、tenten mountainのFacebookも来週あたりから面白いお知らせが出来るはずです。


全然本のこと書いてないので、最後にちょこっとだけ。

昨日発売になったrelaxをさっき本屋で買ってきて、今、最初から最後までさっと見たのですが、大好きだったrelaxがいなくなった時と変わらない感じでひょこっと帰ってきてくれた!っていう感じです。(ちょっと寄ってくれたっていう感じか?)
新しい、でも変わらないrelaxを読むことが出来て、本当に嬉しいです。

表紙の右上にこう書いてあります。

「やあ、みんな元気だった?」

私の答えはこうです。

「元気だよ。君は相変わらずだね。」

2016年2月19日金曜日

リングへあがる




こんばんわ。古本屋「BOOKBOOKこんにちは」です。
最近はだいぶ暖かいですね。夜は寒いけど、昼間暖かいので嬉しいです。

最近、興味がなくきちんと読んだことがなかったけど、改めて読んだらすごく面白いなぁと感じた本を何冊かまとめて読んでいます。その中の一つに石井好子さんのエッセイがあります。1922年生まれ、戦後サンフランシスコで音楽の勉強をしてパリでシャンソン歌手として暮し、日本に戻ってからも歌を歌い、エッセイも書かれていた石井さん。有名な「巴里の空の下オムレツのにおいは流れる」は、いろんな本屋で見たし、友達の本棚でも見たし、図書館でも見かけました。表紙がセンス良くかわいいから手に取るけど、料理のエッセイだし(前回も書いたけど、料理にさほど興味がありません)、なんとなく古くさいような気がしてぺらぺらめくって、すぐ元の場所に戻すということを何度も繰り返していました。

でも、ある日、「私の小さなたからもの」という本を手に取ります。いつものようにさほど関心もなくぺらぺらめくった時、ある一つのエッセイに目が止まりました。「誰もいない舞台」という題です。とても短いエッセイで、石井さんにとっての「舞台」がとても素直に書かれています。これを読んで、私は石井好子さんという人を誤解していたんだなと思いました。

舞台に上がる人間の気持ちは、舞台に上がる人間じゃないと理解出来ないでしょう。私には、きっと正確にその気持ちを理解することは出来ないと思います。私は舞台に上がり何かを披露する人間ではないからです。私は舞台を見上げる人間です。お芝居にもコンサートにも行きます。そうしていろんな舞台を見て、ある日、ふと思ったことがあります。舞台に立つ人間は、舞台を見る人間、全員を相手にしているなと。どこにも逃げれない。立つ人間と見る人間は対等ではないんだと思ったのです。見ている方は、舞台が面白くなければ席を立つこともできます。その気になればヤジを飛ばすことも出来るし、あくびをして眠り込むことも出来ます。でも、舞台に立つ人間はその場から逃げ出すことは出来ません。(ここにお金というものが入ってくるから対等な関係のように見えるけど、全然対等じゃないです。)
この「誰もいない舞台」を読んで、対等ではないと思ったことがあったことを思い出しました。そして、なんで対等じゃないかがよく分かりました。

石井さんはこのエッセイの中で、自分がボクサーのようだと書いてます。リングにあがり戦う相手は自分の心だと。舞台の上に立つその目の前には、舞台を見ている人間はいない黒い海だと。

このエッセイは、舞台の上という華やかな世界で自分を相手に戦っているのよ。ということが主題ではありません。舞台に立つ側と見る側の「舞台」という存在に対する立場の違いです。双方にとっての「舞台」というのはそれぞれ全然別のものなのです。舞台に立つ人間が見ているのはリングの上の風景。向かい合っている相手は自分なのです。双方が対等なはずがありません。見ている風景がお互いまるで違うのです。
石井さんは見る側の人に、舞台に立って歌ってればいいのでしょ。羨ましいわ。と言われ傷ついたと書いています。本当にすごく短いエッセイなのですが、その傷ついた心を静かに、とても正確に書いています。

実は、「舞台」というのは日々いろいろな場面で用意され、私たちは気がつかないところでその舞台に上がっているのではないかと思います。舞台というリングに立ち自分自身と戦っている瞬間が、生活の中にたくさんあると思います。でも、それはリングに立った自分にしか分からない、観客には分からないのです。だから、たとえ勝っても拍手喝采はありません。

石井さんのエッセイには、とても豊かな生活が書かれています。これは、リングに上がり戦った人だからこそ感じることだと思う、そんな豊かさです。羨ましいなと思う私は、まだまだリングで戦う必要があるのでしょう。だから私は、誰にも気づかれなくても、一人、リングへ上がろうと思います。そして、いつかリングを降りた時に見える風景が、石井好子さんが見た風景に近かったらいいなと思います。

2016年2月12日金曜日

家に帰るということ




こんにちは。古本屋「BOOKBOOKこんにちは」です。
朝夕は寒いですが、日差しは春めいてきたような気がします。暖かい。この街の梅もそろそろでしょうかね。

先日仕入れた本の中で「もう、家に帰ろう 2」という写真集がありました。写真家、藤代冥砂さんが撮る家族の写真集です。

私が藤代冥砂さんの写真を初めて見たのは、西葛西の図書館でした。
図書館通いは私の習慣で、どの町に移り住んでも住民登録を済ませた後すぐに図書館の貸し出しカードを作りに行きます。西葛西に住んでいた時期はヒッピーとかビートニクとかそういう本ばかり読んでいて、旅に出たいとか、島に行きたいとか、人生ってなんだ?とか、生きるってなんだ?とか、そういうことばかり考えながら会社員をしてました。
ある日、図書館の旅の本のコーナーで藤代冥砂さんの「ライドライドライド」を見つけます。パラパラと中を見て女の人の裸の写真だなと思ってから、ちょっと文を読んで、借りたような気がします。ずいぶん昔のことなので、もはや借りたかどうかは覚えていません。でも、いろんなアジアの国を旅して、その国の女の人を買って写真を撮る。そういう写真家の人だというインプットは西葛西の図書館でされました。この時、嫌悪感はありませんでした。これも一つの表現手段だとかそういう風に思ったからではなく、相手の女性ときちんと向き合っている感じがしたからです。

その後、私は国立の図書館で藤代冥砂さんの「もう、家に帰ろう」を手に取ります。初めてこの本を手に取ったときは、藤代冥砂さんの写真集だということより、モデルの田辺あゆみさんの写真だというところから入りました。全部見終わり、幸せそうだなぁと思って、表紙をもう一度見た時、「写真=藤代冥砂」という字面で「ライドライドライド」を思い出しました。向き合う相手が女性というところは変わってないけど、一晩を共にする女性たちから、たった一人の愛する女性へというものすごく大きな変化。あぁ、すごいなぁと思いました。私が行っていた国立の図書館は分室だったからか、そんなに広くなかったので、本の数も少なかったです。でも、この本があったからよく行きました。しつこいくらい借りては返し、借りては返しを繰り返していました。しばらく日本を離れることが決まっていたので、荷物を増やすことが出来なかったのです。天気が良い日にばかり行っていたのか、気持ちのよい光がいつも入っていた本棚の風景がこの写真集と一緒に思い出されます。とてもいい思い出です。

そして、今、自分の家で「もう、家に帰ろう 2」を読んでいます。出版されてすぐに一度目を通したとは思うのですが、それ以来5年ぶりに見ることになります。お察しの通り、「もう、家に帰ろう」の続編で、息子の龍之介くんのエコー写真から始まります。

5年前は、私はまだ東京で暮らしていました。ずっと暮らすつもりのない街で暮らすことは、なんとも宙ぶらりんで無責任なことだなぁと、今は思います。あの頃、私は寄り道をしているようなそんな感覚で東京にいた気がします。どこかに行きたいけど、それがどこだか分からないような、行くところは分かっているけど、すぐ行きたくないというような。そんな感じでした。でもある日、思い立って生まれ育った街へ戻ります。「もう、家に帰ろう」という心境だったかと聞かれると、全然そんなことはなかったです。

「ライドライドライド」では、母国を離れ知らない土地で、知らない女と寝てた男が、「もう、家に帰ろう」と愛する人に帰って行く。この「もう、」に、たどり着いた幸せがこの本全てから感じられます。「もう、家に帰ろう 2」は、そのたどり着いた場所から、更に幸せな場所へと歩んでいくその日々が写されています。幸せって限りないんだなって思います。
そして、写真にはそれぞれ一言二言の言葉が添えられています。
例えば、それはただの説明。場所と時。その時の状況。または、その時(か、その写真を見た時)思ったこと。その言葉の一つ一つが、写真に写る風景をぐっと夢の中のような幸せな風景にしています。言葉がなくても、そこに写っているのは幸せな風景なんですが、それが確かに、間違いなく、唯一無二の幸せなのだと、その言葉は私たちに分からせてくれます。写真はすごい。そして、言葉もすごい。そう思います。

さて、私の人生はまだまだ「ライドライドライド」あたりをうろうろしています。言わずもがな女も男も買ってませんが、もう帰ろうと思う場所はまだ見つかっていません。いつか、「もう、家に帰ろう」そう言って、愛する人へ帰る日がくるまで、私は今日も本を読みます。(本屋ですからね。)久しぶりに復活した図書館通いの習慣も私の読書欲を刺激してます。本の海を泳ぎ、今日もいろんな言葉の波に乗ります。そして、一日が終われば、今の自分の家へと帰ります。本当のところ、今も十分に幸せなのです。

2016年2月4日木曜日

作ったことのない料理を作ってみる




こんにちは。古本屋「BOOKBOOKこんにちは」です。
先日、初めて味つけ卵を作ってみました。
世の人々は味つけ卵を母親や祖母など、台所を仕切っている人から習うのでしょうか?
私は、本から習って作ってみることにしました。

私はあまり食に情熱がないので、とりあいず食べられればいい。最悪食べない。という人間です。なので、ささっとある物で何か美味しい物を作るということは、少し遠い世界です。しかし、もちろん美味しいものは大好きですし、食べる物で人は出来ているのも知っているし、美味しいものは、美味しいというだけですごい価値があることも分かるので、美味しいものが作りたいなぁとたまには思う訳です。

そして、今回、私が美味しく作りたいと思ったものは味つけ卵でした。味つけ卵が好きなんです。ラーメン屋さんに行ったら大抵味つけ卵が乗っているものに目が行きます。駅のおにぎり弁当も味つけ卵だとテンションがあがります。味つけ卵があったらご飯のおかずはそれだけでもいいです。味つけ卵って本当になんだか、良いですよね。あのころんとしたフォルム。しっかり染み込んだ証のなんとも言えない薄茶色(?)。よだれが出ます。

そんな味つけ卵から、本の話です。
世の中には料理本が本当にたくさんあって、大抵の本屋さんには料理本コーナーがあり、新しい料理本もどんどん出ています。当たり前なのですが、レシピ通りに作るとすごく美味しく出来上がります。なんだかそれだけで、料理本ってすごいと思います。美味しく作れる分量、手順、ポイントが書いてある本。本当にすごいと思います。

しつこいですが、私は料理に対して情熱的な人間ではありません。なので、そんなにたくさんの料理本は持ってません。ですが、たまには料理本を見て料理をすることもあります。
今回の味つけ卵は、高山なおみさんの「料理」という本を見て作りました。きちんと材料を計って、タイマーを使い作りました。すごく美味しく出来ました。

高山なおみさんは料理家でもありますが、文筆家でもあります。この「料理」という本には、レシピの他にたくさんの文章が入っています。エッセイのような少し長めのものもあるし、詩のような短い文章もあるし、レシピの始まりに書かれたその料理の短い説明の文章。そして、作り方の文章。それぞれとても素敵な文章です。印象的なのは、作り方の文章です。ただ作り方を書いているだけなのですが、その合間合間に、こんもりと、ふんわりと、さっくりと、ザッザッと、くったりとなど、その手つきが見えてくるような表現で書かれています。私はそこにうっすらと料理への愛がみえるような気がするんです。うっすらというのは、なんというか、押し付けがましくないというか、料理に甘えてないというか、一つ一つの手順に責任感のようなものが見えるという感じでしょうか。全面に愛が見えるのはまた違って、とてもいい距離感の愛という意味でうっすらです。料理を信頼していて、更に料理からも信頼されているという感じがします。本の題名が潔く「料理」なのも分かる気がします。この本は読み物としてもすごく良い本だなぁと思います。特に、一番最初と一番最後の言葉がすごくいいなと思います。まったく逆の行為を料理という言葉にしているその表現力が本当にすごい。この言葉に挟まれた料理たちを私は無条件ですごく美味しいものだと思います。
もしこの本を、手にしたら是非じっくりゆっくり読んでみてください。

とても美味しく出来たので、味つけ卵の作り方を忘れないように、しばらくは味つけ卵を作り続けようと思ってます。こうやって、味つけ卵が私の一部になっていくのかと思うととても嬉しいです。

皆さんも、作ったことのない料理を、料理本をみて作ってみてはいかがでしょうか?とても楽しいし、何より食卓が豊かになります。
私は、次は何を作ろうかな。マッシュポテトとか食べたいな。

2016年2月1日月曜日

now, i'm reading this book. 5




こんにちは。古本屋「BOOKBOOKこんにちは」です。
もう開けてひと月経つので、なんですが、あけましておめでとうございます。
1月は本当にいろいろあって、ぼんやりもしていたのですが、忙しくもあって、長かったような、短かったような、停滞していたような、ごにょごにょごにょ…というような歯切れの悪い月でした。でも印象深い月でした。

1月は割とたくさん本を読む時間があって、意図した訳ではないのですが、シリーズ物をよく読んでます。あと、すごく珍しく推理小説を読んでます。
私は、普段あまり推理小説を読みません。嫌いな訳ではないのですが、あまり手にとらないです。なんでだろうと考えたところ、時間がかかる。あんまり面白い作家を知らない。そして、平和大好き人間なのだからだと思います。
推理小説は、事件が起きて、その事件の謎を解いていく。というのが基本的な流れですよね。なので、推理小説にはある程度のページ数が必要になると思います。(短い話ももちろんあると思いますが)そして、謎が出てきたら、それを解きたいと思うのが、人の恒。じっくり読む事になります。結構真剣に。私は、いつも流し読みみたいな読み方で本を読むので、ちょっとぼんやりすると全然頭に入ってこなくなってしまいます。だから、いつもの読み方より少し気合いを入れた読み方をしなくてはいけないので、結果いつもより時間がかかるのです。そんな訳で、読む機会が他のジャンルより少ないので、面白い作家を知る機会も少ないという訳です。
最後の平和大好き人間というのは、まぁ、そのまんまで人を殺した!とか、なんで?とか、どうやって?とか、そういうのは好きじゃないのです。推理小説もそんな単純じゃないんでしょうが、まぁ、しかし、そんな理由から私はあまり推理小説を読みません。

でも、どうしても気になってしまう推理小説のシリーズ物があって、今、それを読んでいるところです。

笠井潔 著「青銅の悲劇」です。
これは矢吹駆シリーズの日本編第一作です。知らない人からしたら、なんのこっちゃって感じだと思います。私がなんで矢吹駆シリーズを読むようになったかというと、ある本の中にこのシリーズの中の一冊が出てきたからです。私はその本を割と頻繁に読んでいたので、その都度「笠井潔」という名前を見ていました。ある時、図書館で笠井潔さんの本を探して借りてみることにしたのです。
そしたら!なんと!面白かったんです!何が面白かったのかというと、一つは登場人物。矢吹駆シリーズなので、もちろん矢吹駆という人が出てきます。そして、ナディア・モガールという好奇心旺盛の女の子が出てきます。早い話が、この二人のことを好きになったんです。ナディアはいい子だし、駆はなんか訳が分からなくてすごい気になる。脇役のおじさんたちもいい味を出していて好きです。小説なので登場人物が魅力的なのは当たり前といえば当たり前なのですが、彼らは私好みの人たちということなのです。
そして、もう一つ。このシリーズの面白いところは、謎の解き方です。ここで聞き慣れない言葉が出てくるんです。「現象学」です。私はうまく説明出来ないので、申し訳ないですが、Wikipediaに頼ります。こちら! 難しいです。ちんぷんかんぷんです。矢吹駆はこの現象学を使って、殺人事件の犯人を割り出すのです。いやはや。ちんぷんかんぷんなりに、駆の言っていることを辛抱強く読むと、へーっなるほどね!となるんです。そんな考え方があるのか!と、そんな考え方を使って謎が解けたのか!みたいな。これが、面白いです。

と、ここまで書いてあれですが、この青銅の悲劇には矢吹駆が全然出てきません。(ナディアが下巻でやっと登場するのですが、駆は出てこない!)そして、主人公のおじさんに全然惹かれません。あと20ページくらいで読み終わるのですが、なんだか不完全燃焼です。

と思って、今、笠井潔さんをwikipediaしたら、読んでない矢吹駆シリーズが何冊かありました。あぁ、良かった…。
シリーズ物ってなんだか、いいですよねぇ。しかも、シリーズものの登場人物が好きって最高じゃないですかー。

さぁ、皆さんも寒い日にはこたつに入ってレッツ読書!です!